2018年5月の投稿

尼崎の歴史物語 第3回「銭湯の歴史」

尼崎の歴史 銭湯の歴史

「風呂屋」や「湯屋(ゆや)」とも呼ばれる銭湯は、公衆浴場の1種です。

銭湯の起源は、仏教と深いかかわりがあります。6世紀に仏教が伝来すると各地に寺院が建ち、僧侶が身を清めるための「浴堂」も造られました。
仏教では「沐浴」の功徳が説かれ、身の汚れを落とすことが重要視されます。やがて病人や貧しい人に浴堂を開放する「施浴」が盛んにおこなわれました。
奈良の東大寺や法華寺の浴室(からふろ)が有名です。平安時代末には京都に「湯屋」が登場したとも伝わっています。鎌倉時代には施浴がさらに広まり、恵まれない人だけでなく一般庶民にも無料で浴堂が開放されました。
 

やがて入浴料を徴収するようになり、これが現在の「銭湯」になったといわれます。

室町時代には京都の街中にも銭湯が登場。当時の銭湯は湯船ではなく蒸し風呂だったそうです。庶民にとって銭湯が近い存在になったのは、江戸時代から。
江戸時代初期にはまだ蒸し風呂が主流でしたが、慶長年間の終わりごろ(1615年ごろ)から、現在のような湯船へと変わり始めます。明治になると「改良風呂」と呼ばれる、ほぼ現在の銭湯に近い造りになります。より広く、清潔に。現在ではサウナやジャグジーなども備えた「スーパー銭湯」も現れ、まるでアミューズメント施設のような充実ぶりです。
銭湯には単に「風呂」ではなく、「社交場」としての側面もあります。これも、日本ならではの銭湯文化といえるでしょう。古くは鎌倉時代、将軍足利義政夫人の日野富子が年末に縁者を招いて風呂と酒宴、茶の湯でもてなしたという記録があります。

庶民の間でも薬師堂や観音堂で風呂をふるまってもらったあと、持ち寄った酒食で宴会をする「風呂講」がおこなわれました。江戸時代には1階が浴場、2階が広間という銭湯が作られます。2階の広間は開放され、庶民がお茶や菓子を食べ、囲碁や将棋に興じました。ときには落語の寄席が設けられることも。
営業時間は朝8時から夜8時ごろまでだったそうで、江戸の人たちの風呂好きがしのばれます。

 

尼崎の銭湯は?

総務省「2010年国勢調査」をもとに全国の政令市・中核市を比較 一般に「銭湯」と呼ばれる私営一般公衆浴場。

政令市・中核市で人口10万人あたりの数を見ると大阪市は18.3カ所とトップ。兵庫県尼崎市が3位、大阪府東大阪市が4位、京都市が5位と、関西勢が上位にランクイン。
大阪から神戸にかけての阪神地区には、今もなお、銭湯がたくさんあります。

近畿地方の中心部分にして阪神工業地帯の中核部に当る阪神地区には、季節労働者を含む短期雇用で就労する労働者の数が多かった事と、銭湯も地元のコミュニケーションの一環としての一面もあったのでしょう。尼崎では尼崎温銭郷という取り組みがあります。尼崎温銭郷(あまがさきおんせんきょう)は、アマの銭湯を楽しむための架空の温泉郷です。尼崎の銭湯情報などを以下のサイトで発信しています。また過去には【福湯めぐり】と題した銭湯をめぐるスタンプラリーも実施されていました。

参考リンク:尼崎の銭湯と町並みを楽しもう