2018年12月の投稿

尼崎の歴史物語 第12回「尼崎城」

尼崎城

近世の尼崎城は、近江国膳所藩から転封となり尼崎藩主となった戸田氏鉄が、幕府に命じられて築いた城です。

尼崎城は大阪城の支城として大阪の西の守りを固める重要な役割を担っていました。なお、戸田氏鉄は、大阪城の修築に際して、普請惣奉行として従事しており、同時期に尼崎城と大阪城という重要な城郭の工事に携わっていました。

尼崎城はどのような城だったのでしょうか。伝わっているところでは、四角形の本丸の北東に四重の天守をもち、南東、南西、北西に三重の櫓が配置されていたということです。南西の櫓は伏見櫓と呼ばれ、外観の類似性から伏見城から移築されたものと言われています。
このような尼崎城ですが、明治6年(1873年)の廃城令により建物が取り壊され、明治12年(1879年)の暴風雨により大破した尼崎港修築のため、本丸天守台・櫓台などの石垣が無償で払い下げられ、その姿を消してしまいました。

尼崎城の特徴は、本丸が四角形であること、天守が四重であること、本丸大書院が特異な平面をとることの三点が挙げられます。

とりわけ、尼崎城の本丸大書院は、一方向の対面軸(君主が家臣と対面する際の方向)のみを有する他の城の構造と異なり、東西南北の二方向の対面軸を有しています。他の城郭は縦方向のみの利用方法を念頭に置いていたため長方形の形状が多いのに対し、尼崎城は二方向の対面軸を有することで正方形に近い形状になっており、空間を有効活用しやすい合理的な構造だったようです。

参考:ひょうごの城、大阪春秋64号


尼崎の歴史物語 第11回「尼崎の寺町」

尼崎の歴史11

阪神尼崎駅の南側には寺町と呼ばれる地域が広がっています。現在も11の寺院があるこの地域は,尼崎城が築城された際に形成されました。寺町が形成された当初は20もの寺院が存在していたことが古図から確認されています。
400年以上経った今も城下町の寺町の景観がこれほどよく残されているところは数少ないとも指摘されているこの地域は、尼崎市都市美形成条例によって景観の保全が図られています。

寺町は、尼崎城の築城によって移転することとなったお寺や、周辺に存在した多くの寺院を一カ所にまとめることで形成されました。尼崎城の城下町は、東・南・西に侍屋敷が配置されており、西方北側に寺町が形成されました。

寺町が西方北側に配置されたのは、西国への備えとしての意味がありました。このような意味合いで形成された寺町は、大阪城の北西側や聚楽第の東側にも見られます。一遍上人遊行の地でもある尼崎には時宗の寺院が四ヶ寺もあったことも特徴です。
尼崎の寺町の建設は、それまでにあった墓地を利用しており、田畑を潰して形成されていたのではないと考えられているようです。

参考:大阪春秋58号