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尼崎の歴史物語 第12回「尼崎城」

尼崎城

近世の尼崎城は、近江国膳所藩から転封となり尼崎藩主となった戸田氏鉄が、幕府に命じられて築いた城です。

尼崎城は大阪城の支城として大阪の西の守りを固める重要な役割を担っていました。なお、戸田氏鉄は、大阪城の修築に際して、普請惣奉行として従事しており、同時期に尼崎城と大阪城という重要な城郭の工事に携わっていました。

尼崎城はどのような城だったのでしょうか。伝わっているところでは、四角形の本丸の北東に四重の天守をもち、南東、南西、北西に三重の櫓が配置されていたということです。南西の櫓は伏見櫓と呼ばれ、外観の類似性から伏見城から移築されたものと言われています。
このような尼崎城ですが、明治6年(1873年)の廃城令により建物が取り壊され、明治12年(1879年)の暴風雨により大破した尼崎港修築のため、本丸天守台・櫓台などの石垣が無償で払い下げられ、その姿を消してしまいました。

尼崎城の特徴は、本丸が四角形であること、天守が四重であること、本丸大書院が特異な平面をとることの三点が挙げられます。

とりわけ、尼崎城の本丸大書院は、一方向の対面軸(君主が家臣と対面する際の方向)のみを有する他の城の構造と異なり、東西南北の二方向の対面軸を有しています。他の城郭は縦方向のみの利用方法を念頭に置いていたため長方形の形状が多いのに対し、尼崎城は二方向の対面軸を有することで正方形に近い形状になっており、空間を有効活用しやすい合理的な構造だったようです。

参考:ひょうごの城、大阪春秋64号


尼崎の歴史物語 第11回「尼崎の寺町」

尼崎の歴史11

阪神尼崎駅の南側には寺町と呼ばれる地域が広がっています。現在も11の寺院があるこの地域は,尼崎城が築城された際に形成されました。寺町が形成された当初は20もの寺院が存在していたことが古図から確認されています。
400年以上経った今も城下町の寺町の景観がこれほどよく残されているところは数少ないとも指摘されているこの地域は、尼崎市都市美形成条例によって景観の保全が図られています。

寺町は、尼崎城の築城によって移転することとなったお寺や、周辺に存在した多くの寺院を一カ所にまとめることで形成されました。尼崎城の城下町は、東・南・西に侍屋敷が配置されており、西方北側に寺町が形成されました。

寺町が西方北側に配置されたのは、西国への備えとしての意味がありました。このような意味合いで形成された寺町は、大阪城の北西側や聚楽第の東側にも見られます。一遍上人遊行の地でもある尼崎には時宗の寺院が四ヶ寺もあったことも特徴です。
尼崎の寺町の建設は、それまでにあった墓地を利用しており、田畑を潰して形成されていたのではないと考えられているようです。

参考:大阪春秋58号


尼崎の歴史物語 第10回「尼崎の醤油」

尼崎の歴史_10
 「醤油発祥の地は尼崎である」と言うと驚く方も多いと思います。醤油の発祥地については諸説ありますが,和歌山県の湯浅であると言われることが一般的なようです。湯浅で作られていた醤油はいわゆる溜まり醤油であり,味噌を製造する際にできる液体のことを指します。

 これに対して現在一般に使われている醤油は溜まり醤油と対比して本格醤油と呼ばれることもあり,製法や原料が大きく異なります。本格醤油の製造には,酒造技術を応用した麹の製造技術や強力な圧搾装置が必要だったということです。原料の違いとしては,溜まり醤油は大豆から作られるのに対して,本格醤油の原料は大豆と小麦がほぼ同量使われています。

 江戸時代の酒造技術は伊丹・池田の酒造家が牽引しており,伊丹・池田から江戸へ運ばれた清酒は年間64万樽にも達したことがあったようです。酒造先進の地である伊丹の酒造家が,交通の便に優れた尼崎の地に酒と醤油を作る蔵を建て,酒造技術を応用して本格醤油の製造を開始したということです。

 その後,尼崎の醤油は名産品としての地位を確立し,明治時代には海外にも輸出されていたそうです。この歴史は,第二次世界大戦の影響により醤油原料が統制されたため,昭和17年に惜しくも途絶えてしまいました。しかしながら,昭和60年に当時の製法を再現して「尼ノ生揚醤油」が復活し,現在も販売が継続されています(製造は龍野で行われています)。

参考:大阪春秋58号


尼崎の歴史物語 第9回「田能遺跡」

尼崎の歴史09
弥生時代の人々の生活についてはまだまだ未知の部分が多くあります。
人々の生活でもとりわけ重要な葬儀の方法について,ここ尼崎で重要な発見がありました。

田能遺跡の存在自体は尼崎市に在住の方であればご存知の方も多いと思います。田能遺跡で発見されたお墓によって,弥生時代のお墓に木材が使用されていたことが証明されたのです。

田能遺跡からは他にも,近畿地方で初めてとなる銅剣の鋳型も発見されました。鋳型が発見されたということは,この場所で,当時としては高度な技術が必要となる青銅器の鋳造が行われていたことを示唆しています。

また,石川県産の碧玉を用いた管玉が大量に発見されたり,貴重な白銅製の腕輪をつけて埋葬されている人が見つかったことから,田能遺跡はとても豊かな集落だったこともわかります。
現在田能遺跡は公園として整備されており,復元された竪穴式住居の中に入ったり,資料館の各種展示を見ることで弥生時代の生活に思いをはせることもできるようになっています。
(取材先:尼崎市立田能資料館)


尼崎の歴史物語 第8回「尼崎のソース」

尼崎の歴史_08
ソースは食卓に欠かせない調味料です。通常日本語でソースと言った場合、ウスターソースやその粘度を調整したトンカツソース等を指し、お好み焼きやたこ焼き、焼きそば意外にも、コロッケやとんかつと様々な料理に使われています。

ソースは、日本では19世紀末頃から使われていましたが、食事の洋風化に伴って、広く普及するようになったのは戦後のこととされています。今や卓上調味料としては醤油よりも身近な存在かもしれません。

ソースを製造する会社は阪神間に数多くあり、ここ尼崎にも数社が存在しています。尼崎のハリマ食品株式会社では、創業以来木樽でソースを製造し続けていますが、社長の鎮西裕幸さんからお話をうかがうことができました。

ハリマ食品株式会社は、先代である鎮西さんのお父様が野田にある大黒屋ソースでソースづくりを学んだ後、昭和39年に創業された会社です。創業後、ハリマ食品のソースは尼崎市内の給食などに採用され、市民に広く親しまれました。
現在は、甲子園球場内で売られている焼きそばをはじめとして串カツやたこ焼きにも採用され、尼崎市外にも進出を果たしています。
ハリマ食品のこだわりは、何と言っても創業以来使われている木樽を用いた製造過程や、保存料無添加という点にあります。社長によれば、木樽を使い添加物を加えないことでソースに深い味わいが出るということです。
ハリマ食品では1800リットルの木樽3個を用いてソースを製造しています。ハリマ食品のワンダフルソースを見かけた際には是非ご賞味ください。
(取材先:ハリマ食品株式会社)



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