尼崎の歴史


尼崎の歴史物語 第7回「船だんじり」

尼崎の歴史_07

貴布禰神社の夏祭りの起こりは平安時代にさかのぼると言われておりますが,当時から貴布禰神社の周辺は,多くの船が出入りする港があり漁師や市場関係者などが多く住む地域でした。当時,都市の人々が最も恐れたのは疫病の流行でした。そのため,1年で一番気温が高く,病気にかかりやすく,食べ物も腐りやすいこの時期に,疫病退散を祈願して祭が行われたのです。

夏祭りでは,貴布禰神社の氏子の様子を見に神様が神社の外へお出ましになります。ふだんは本殿の奥深くにいらっしゃる神様が,祭の日にはわざわざ出てきて下さいます。その感謝の気持ちを示すため,氏子たちも神様に従い,行く先を先導するようになりました。このような行列は渡御と呼ばれます。

貴布禰神社では,周辺に川が多いため,神輿を船に乗せる「川渡御」も行われていました。川渡御の際には「船だんじり」も見られました。だんじりの台車部分を外して船に乗せ,中在家にあった魚市場近くの船だまりで待ち,神さまの船をお迎えするのです。かつては夜になると真っ暗だった尼崎の沿岸部にかがり火を焚いた船だんじり[ 平成元年に当会議所も協力し船だんじりが復興されました。現在は渡御が行われていませんが,2017年に尼崎で近畿地区大会を開催した際に,数年ぶりに船だんじりが曳かれました。
(取材先:中在家)


尼崎の歴史物語 第6回「源義経ゆかりの地」

尼崎の歴史06

中尊寺金色堂をご存じの方は多いでしょう。東北地方一帯で栄華を誇った奥州藤原氏の象徴とも言える建物です。

建物の内外ほとんどが金箔に覆われたとても豪華な建物で、1951年に国宝建造物第1号に指定されています(2011年には「平泉の文化遺産」として世界遺産にも登録されています)。しかし、それほど反映していた奥州藤原氏も1189年に源頼朝によって滅ぼされてしまいます。
 

ここまで読んで、なぜ尼崎の歴史で奥州藤原氏が出てくるの?と疑問に思われた方は多いと思います。

尼崎の歴史で奥州藤原氏が出てくるのは、奥州藤原氏滅亡のきっかけとなる出来事がここ尼崎で起きたからです。
奥州藤原氏滅亡の直接のきっかけは、奥州藤原氏第三代秀衡が源義経を匿ったためであるとされています。

 
それでは義経はなぜ奥州の地に渡ったのでしょうか。

義経は、兄源頼朝と仲違いした後、九州に渡って頼朝に対抗しようとしました。義経は京都から西に向かい、大物まで来ました(位置は少し移されていますが義経弁慶隠家跡という碑が現在も大物主神社境内に残されています。)。

尼崎の義経弁慶隠家跡

 

ところが、現在の大物主神社のあたりから船で九州に向かおうと出向した際に、暴風雨に遭遇し堺に流れ着いてしまいます。

これによって義経は九州行きを断念し、奥州へ向かうことになります。
義経が暴風雨に遭遇せず九州に行くことができていたら、歴史は今と少し変わったものになっていたことでしょう。
(取材先:大物主神社)


尼崎の歴史物語 第5回「尼崎と近松門左衛門」

尼崎の歴史 尼崎と近松門左衛門

尼崎は東洋のシェイクスピアと呼ばれた近松門左衛門とゆかりがある町です。

近松門左衛門(1653~1724 /本名 杉森 重盛 )

越前藩士の杉森信義の次男として福井に生まれ、幼名を次郎吉といいました。
後に浄瑠璃、歌舞伎作者として活躍しました。宇治嘉太夫や竹本義太夫に浄瑠璃を、また坂田藤十郎には歌舞伎狂言を提供しました。宝永3年以降に大阪に移住し、ここ尼崎の地をしばしば訪れました。

享保9年(1724年)に亡くなりましたが、尼崎広済寺に葬られました。作品は100編を超えていますが、名作が多く、なかでも「曽根崎心中」「冥途の飛脚」「国性爺合戦」「心中天の網島」は傑作として特に有名です。近松門左衛門は世界に誇るべき日本最高の劇詩人といえます。

なぜ尼崎と近松なの?

近松門左衛門は、大阪に住んでいたころに、久々知の日蓮宗の広済寺を度々訪れています。寺本堂の裏には「近松部屋」と呼ばれる彼の仕事部屋があり、ここで執筆活動をしていたと伝えられています。

当時、広済寺は廃寺同然で近松は住職の日昌上人が寺を再興するに当たり尽力し、また母親の法要を広済寺にて行うなど、上人とも親交が深かったようです。

近松は、自らの墓をここに残しており、墓所は昭和41年9月に国定史跡となりました。
近松の墓所があるということで、広済寺には芸能関係者の参詣やゆかりの品の奉納がしばしばあります。また近松作品も初演当時とは姿を変えながらも尼崎をはじめ人々に親しまれ続けています。
(取材先:近松記念館)


尼崎の歴史物語 第4回「尼崎市の市外局番」

尼崎の歴史 尼崎市の市外局番

尼崎市の市外局番は06で大阪と同じとなっています。
兵庫県の他の自治体は07から始まる市外局番なのになぜ尼崎市だけ06なのでしょうか。
06になったのは尼崎市にあった世界最大級の紡績会社,尼崎紡績(現ユニチカ株式会社)が理由と言われています。
尼崎紡績の工場が建設されたのは1889年(明治22年)ですが,1893年(明治26年)に大阪電話交換局が開設された際に,尼崎紡績が費用を負担して大阪から尼崎市の工場まで電話線を引き,尼崎紡績に電話を通しました。

尼崎紡績が電話線を大阪電話交換局から尼崎市まで引いたことで,市外局番が大阪と同じ06になったということです。
尼崎紡績の本社事務所として用いられた建物は1900年(明治33年)に竣工しましたが,尼崎市に現存する最古の洋風建築として尼崎紡績の繁栄の歴史を今に伝えています。
本社事務所はユニチカ記念館として毎週水曜日に一般公開されており,尼崎市の建物としては最も早く兵庫県から景観形成重要建造物として指定されました。
(取材先:ユニチカ記念館)


尼崎の歴史物語 第3回「銭湯の歴史」

尼崎の歴史 銭湯の歴史

「風呂屋」や「湯屋(ゆや)」とも呼ばれる銭湯は、公衆浴場の1種です。

銭湯の起源は、仏教と深いかかわりがあります。6世紀に仏教が伝来すると各地に寺院が建ち、僧侶が身を清めるための「浴堂」も造られました。
仏教では「沐浴」の功徳が説かれ、身の汚れを落とすことが重要視されます。やがて病人や貧しい人に浴堂を開放する「施浴」が盛んにおこなわれました。
奈良の東大寺や法華寺の浴室(からふろ)が有名です。平安時代末には京都に「湯屋」が登場したとも伝わっています。鎌倉時代には施浴がさらに広まり、恵まれない人だけでなく一般庶民にも無料で浴堂が開放されました。
 

やがて入浴料を徴収するようになり、これが現在の「銭湯」になったといわれます。

室町時代には京都の街中にも銭湯が登場。当時の銭湯は湯船ではなく蒸し風呂だったそうです。庶民にとって銭湯が近い存在になったのは、江戸時代から。
江戸時代初期にはまだ蒸し風呂が主流でしたが、慶長年間の終わりごろ(1615年ごろ)から、現在のような湯船へと変わり始めます。明治になると「改良風呂」と呼ばれる、ほぼ現在の銭湯に近い造りになります。より広く、清潔に。現在ではサウナやジャグジーなども備えた「スーパー銭湯」も現れ、まるでアミューズメント施設のような充実ぶりです。
銭湯には単に「風呂」ではなく、「社交場」としての側面もあります。これも、日本ならではの銭湯文化といえるでしょう。古くは鎌倉時代、将軍足利義政夫人の日野富子が年末に縁者を招いて風呂と酒宴、茶の湯でもてなしたという記録があります。

庶民の間でも薬師堂や観音堂で風呂をふるまってもらったあと、持ち寄った酒食で宴会をする「風呂講」がおこなわれました。江戸時代には1階が浴場、2階が広間という銭湯が作られます。2階の広間は開放され、庶民がお茶や菓子を食べ、囲碁や将棋に興じました。ときには落語の寄席が設けられることも。
営業時間は朝8時から夜8時ごろまでだったそうで、江戸の人たちの風呂好きがしのばれます。

 

尼崎の銭湯は?

総務省「2010年国勢調査」をもとに全国の政令市・中核市を比較 一般に「銭湯」と呼ばれる私営一般公衆浴場。

政令市・中核市で人口10万人あたりの数を見ると大阪市は18.3カ所とトップ。兵庫県尼崎市が3位、大阪府東大阪市が4位、京都市が5位と、関西勢が上位にランクイン。
大阪から神戸にかけての阪神地区には、今もなお、銭湯がたくさんあります。

近畿地方の中心部分にして阪神工業地帯の中核部に当る阪神地区には、季節労働者を含む短期雇用で就労する労働者の数が多かった事と、銭湯も地元のコミュニケーションの一環としての一面もあったのでしょう。尼崎では尼崎温銭郷という取り組みがあります。尼崎温銭郷(あまがさきおんせんきょう)は、アマの銭湯を楽しむための架空の温泉郷です。尼崎の銭湯情報などを以下のサイトで発信しています。また過去には【福湯めぐり】と題した銭湯をめぐるスタンプラリーも実施されていました。

参考リンク:尼崎の銭湯と町並みを楽しもう



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