尼崎の歴史物語 第5回「尼崎と近松門左衛門」

尼崎の歴史 尼崎と近松門左衛門

尼崎は東洋のシェイクスピアと呼ばれた近松門左衛門とゆかりがある町です。

近松門左衛門(1653~1724 /本名 杉森 重盛 )

越前藩士の杉森信義の次男として福井に生まれ、幼名を次郎吉といいました。
後に浄瑠璃、歌舞伎作者として活躍しました。宇治嘉太夫や竹本義太夫に浄瑠璃を、また坂田藤十郎には歌舞伎狂言を提供しました。宝永3年以降に大阪に移住し、ここ尼崎の地をしばしば訪れました。

享保9年(1724年)に亡くなりましたが、尼崎広済寺に葬られました。作品は100編を超えていますが、名作が多く、なかでも「曽根崎心中」「冥途の飛脚」「国性爺合戦」「心中天の網島」は傑作として特に有名です。近松門左衛門は世界に誇るべき日本最高の劇詩人といえます。

なぜ尼崎と近松なの?

近松門左衛門は、大阪に住んでいたころに、久々知の日蓮宗の広済寺を度々訪れています。寺本堂の裏には「近松部屋」と呼ばれる彼の仕事部屋があり、ここで執筆活動をしていたと伝えられています。

当時、広済寺は廃寺同然で近松は住職の日昌上人が寺を再興するに当たり尽力し、また母親の法要を広済寺にて行うなど、上人とも親交が深かったようです。

近松は、自らの墓をここに残しており、墓所は昭和41年9月に国定史跡となりました。
近松の墓所があるということで、広済寺には芸能関係者の参詣やゆかりの品の奉納がしばしばあります。また近松作品も初演当時とは姿を変えながらも尼崎をはじめ人々に親しまれ続けています。
(取材先:近松記念館)


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