事業名称:11月度スピーチ例会~意志あるところに道は通ず~
日時:11月16日(金)18:30
場所:塚口サンサン劇場 THEATER4
11月度スピーチ例会では,今年度卒業される24名の卒業生に「前途洋々たる未来に向けて」というテーマのもと、次年度以降も活動していく現役メンバーに向けてスピーチをいただきます。
必ずご出席頂きますようお願いいたします。
事業名称:11月度スピーチ例会~意志あるところに道は通ず~
日時:11月16日(金)18:30
場所:塚口サンサン劇場 THEATER4
11月度スピーチ例会では,今年度卒業される24名の卒業生に「前途洋々たる未来に向けて」というテーマのもと、次年度以降も活動していく現役メンバーに向けてスピーチをいただきます。
必ずご出席頂きますようお願いいたします。
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神戸ベイシェラトンホテルにて、阪神7青年会議所合同例会が行われました。
阪神7青年会議所合同例会とは、尼崎、芦屋、伊丹、川西、三田、宝塚、西宮の7LOMが合同で例会を行います。
講演では、社会学者の古市憲寿氏
が講師として、(僕たちの前途~
JAYCEEの可能性の~)をテーマに講話していただきました。
2019年度理事長予定者紹介では各LOMの理事長予定者が2019年度のスローガンをスピーチしました。
尼崎青年会議所からは池田理事長予定者が力強いスピーチをされました。
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ソースは食卓に欠かせない調味料です。通常日本語でソースと言った場合、ウスターソースやその粘度を調整したトンカツソース等を指し、お好み焼きやたこ焼き、焼きそば意外にも、コロッケやとんかつと様々な料理に使われています。
ソースは、日本では19世紀末頃から使われていましたが、食事の洋風化に伴って、広く普及するようになったのは戦後のこととされています。今や卓上調味料としては醤油よりも身近な存在かもしれません。
ソースを製造する会社は阪神間に数多くあり、ここ尼崎にも数社が存在しています。尼崎のハリマ食品株式会社では、創業以来木樽でソースを製造し続けていますが、社長の鎮西裕幸さんからお話をうかがうことができました。
ハリマ食品株式会社は、先代である鎮西さんのお父様が野田にある大黒屋ソースでソースづくりを学んだ後、昭和39年に創業された会社です。創業後、ハリマ食品のソースは尼崎市内の給食などに採用され、市民に広く親しまれました。
現在は、甲子園球場内で売られている焼きそばをはじめとして串カツやたこ焼きにも採用され、尼崎市外にも進出を果たしています。
ハリマ食品のこだわりは、何と言っても創業以来使われている木樽を用いた製造過程や、保存料無添加という点にあります。社長によれば、木樽を使い添加物を加えないことでソースに深い味わいが出るということです。
ハリマ食品では1800リットルの木樽3個を用いてソースを製造しています。ハリマ食品のワンダフルソースを見かけた際には是非ご賞味ください。
(取材先:ハリマ食品株式会社)
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貴布禰神社の夏祭りの起こりは平安時代にさかのぼると言われておりますが,当時から貴布禰神社の周辺は,多くの船が出入りする港があり漁師や市場関係者などが多く住む地域でした。当時,都市の人々が最も恐れたのは疫病の流行でした。そのため,1年で一番気温が高く,病気にかかりやすく,食べ物も腐りやすいこの時期に,疫病退散を祈願して祭が行われたのです。
夏祭りでは,貴布禰神社の氏子の様子を見に神様が神社の外へお出ましになります。ふだんは本殿の奥深くにいらっしゃる神様が,祭の日にはわざわざ出てきて下さいます。その感謝の気持ちを示すため,氏子たちも神様に従い,行く先を先導するようになりました。このような行列は渡御と呼ばれます。
貴布禰神社では,周辺に川が多いため,神輿を船に乗せる「川渡御」も行われていました。川渡御の際には「船だんじり」も見られました。だんじりの台車部分を外して船に乗せ,中在家にあった魚市場近くの船だまりで待ち,神さまの船をお迎えするのです。かつては夜になると真っ暗だった尼崎の沿岸部にかがり火を焚いた船だんじり[ 平成元年に当会議所も協力し船だんじりが復興されました。現在は渡御が行われていませんが,2017年に尼崎で近畿地区大会を開催した際に,数年ぶりに船だんじりが曳かれました。
(取材先:中在家)
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中尊寺金色堂をご存じの方は多いでしょう。東北地方一帯で栄華を誇った奥州藤原氏の象徴とも言える建物です。
建物の内外ほとんどが金箔に覆われたとても豪華な建物で、1951年に国宝建造物第1号に指定されています(2011年には「平泉の文化遺産」として世界遺産にも登録されています)。しかし、それほど反映していた奥州藤原氏も1189年に源頼朝によって滅ぼされてしまいます。
ここまで読んで、なぜ尼崎の歴史で奥州藤原氏が出てくるの?と疑問に思われた方は多いと思います。
尼崎の歴史で奥州藤原氏が出てくるのは、奥州藤原氏滅亡のきっかけとなる出来事がここ尼崎で起きたからです。
奥州藤原氏滅亡の直接のきっかけは、奥州藤原氏第三代秀衡が源義経を匿ったためであるとされています。
それでは義経はなぜ奥州の地に渡ったのでしょうか。
義経は、兄源頼朝と仲違いした後、九州に渡って頼朝に対抗しようとしました。義経は京都から西に向かい、大物まで来ました(位置は少し移されていますが義経弁慶隠家跡という碑が現在も大物主神社境内に残されています。)。
ところが、現在の大物主神社のあたりから船で九州に向かおうと出向した際に、暴風雨に遭遇し堺に流れ着いてしまいます。
これによって義経は九州行きを断念し、奥州へ向かうことになります。
義経が暴風雨に遭遇せず九州に行くことができていたら、歴史は今と少し変わったものになっていたことでしょう。
(取材先:大物主神社)
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